2011年02月11日

日本語はなぜ変化するか―母語としての日本語の歴史/小松英雄



今回も携帯電話とは無関係の話。
ほんの紹介です。私の大好きな本です。


学問においては、こと科学という分野においては抽象的な定義づけの曖昧な言葉で現象が理解されるべきではない(というよりも理解されない)

私は学問に貧しい人間だが、理系ならば数値・原理・現象が重要視されるのかな?数値?


最近読んだ本で面白いのが、小松英雄(1999)『日本語は何故変化するか』笠間書院

日本語が言語である以上、変化はする。
その理由は何故なのか・・・・それをたどっていく。こう言うと語弊があるかもしれないのでいいなおす。

・言語は変化する。
・それは様々な要因が考えられる。
・言語には言語ごとのシステムが存在する。
・言語ごとに存在するシステムの中で、言語はバランスを取りつつ変化していく。
・そのシステムの変化の方略はなんなのか。
・こと日本語においてはどうなのか、というのを探っていく。

もちろん、運用上の問題、つまり言語の本質である情報伝達という面において利便を図るようにするために言語は変化する、という前提の上でだ。
つまり、言語は情報伝達の利便のため変化するが、日本語という言語体系のシステムの中でどのように言語が利便性を獲得していくか、というのを模索して言っている。


それを小松英雄は、「ら」ぬき言葉を使って、その一つの在り方を提示している。
言語学として時々、ちゃんとした考証を踏まえていない記述がみられるが、本人自身が一般向けのためにそうした、と述べているので、一般の人が読んでもわかるようにできている。
といっても一読しただけでは無理かもしれないが。
それでも最初の方は、すごくわかりやすい。うまり現代国語文法に対する痛烈な批判である。


ここには書ききれない・・・・何を書けばいいのか・・・ともかく読んでほしい。

ら抜き言葉、そして敬語を取り扱っている。

「日本語の乱れ」は存在するのだろうか。それは彼の立場からすれば、というより言語学の立場からすれば存在しない。ただ変化しているだけ。そして変化を阻害しようとしている存在が、日本語の乱れ」を訴える老人たちだ。古き人。
もっとも急速な言語変化は世代間の断絶を生むので、古い人老人たちも抑止力となり言語のバランスを整える要となっていると述べている。

それから日本語は美しいだとか、日本語は敬語を持っているから礼節正しい民族性を持っている、とかそれらをすべて明快に否定している。私も当然そう思う(ましてや日本語が最も特殊な言語とか、もっとも優れている言語とははありえない。その逆もしかり。むろん、美しい言語などではない。日本語も美しい、であるならば許容されるのであろうが)

そもそも現代日本語(そして平安時代の日本語)の敬語には敬意が存在するのか。百歩譲って経緯が存在するとして、ではその敬意とやらが、敬語の特質か?
全て否だ。
敬語の特質は敬意ではない。本質とも言っていい。


@敬語が発達したのは、宮中のような閉じた社会であった。
そのため、一般社会に敬語は浸透していなかった。

A残されているテキストは宮中のものだけだからである。そのため、敬語が発達しているように見えても、一般社会では未発達だ(下々のものは、官僚たちに会えない。ましては天皇などに会えるはずもない)。残されているテキストだけで、日本語のすべてを語ったようになるのは危険。ましてや、書記言語は常に口頭語と一致しない。

B前述と同じことだが、書記言語と口頭語は一致しない。言文一致運動後もだ。つまり現代もだ。

C平安時代、人称や代名詞が未発達であった。だれがだれにを言い表すことができなかった。そのため敬語を持って動作主や被動作主を言い表した。そして閉じられた宮中での話では、全ての人間の身分が高い。敬語の段階化が必要であった。絶対敬語など言われている類はその典型。天皇に対する敬語が確立される(絶対敬語という用語は的を射ないと、本書では述べられていた)

Dつまり敬語は、動作主被動作主を識別するために生まれた(そのため敬語という用語が不適切)

E現代語においても敬語は敬意を含意するわけではない。(たとえば、同じ先生という身分であっても、たいしてしたしくない間柄であれば「××先生も明日、いらっしゃいます?」と使う。敬意は含まれていない、英語のポライトネス概念の説明の方がわかりやすい)

Fだいたい謙譲と尊敬と丁寧の何が違うのか。謙譲と尊敬は、丁寧を含意しないのか?
相手を上にあげる「尊敬」と自分を下げる「謙譲」は結局同じでは?


ああーーまだたくさんありが、書いても意味がないだろうし、説明するのは私の足りない頭では無理だ・・・・
ともかくおもしろい!古典が嫌いだった人にこそ読んでほしい一冊。さすれば、今までの古典という科目が、なおさら嫌いになり、新たな視点で古典をとらえられるだろうし「美しい日本語」なんてまゆつばてきな学説に踊らされることもないだろう。


いやまあ母語なんだから、美しいと感じるのは間違いではない。問題は「(主観であるにもかかわらず)ほかの言語と比べて最も美しいのが日本語だ」、と言い切ること。
そしてその考えがまかり通ること。真実ではない。




posted by Y1 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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